括弧の外の草 ――わたしの観察遊びの基準【🦊の道具箱🧰】
ある草を、コバノショウジョウソウ(Euphorbia dentata)という名前とともに見はじめた。わたしはその名前を手がかりに、株を見続けた。
見続けるうちに、名前と株のあいだに小さなずれが現れた。成熟した種子を10粒測り、輪郭、断面、表面の彫刻、caruncleを記載と照らし合わせた。すると、E. davidiiの記載とよく合う。
ここで起こりやすいのは、名前の差し替えである。
dentataをいったん括弧に入れ、代わりにdavidiiを取り出して握る。これは判断の保留ではない。ラベルを交換したにすぎない。

先日刈られた三郷株。

その場でたい肥化(というか土に戻す)されるようで、未熟種子、半熟種子はそのまま。これが来年発芽するのかどうか引き続き定点観察🦊ジー。






個人的には「生存=根を張る。開通している」状態にのみ興味があるわけでもなく、その後、土に還っていく経過。その周辺。芽生え。未熟、半熟、完熟種子落下のその後など、観察対象として鵺のようになっていく。
フッサールの言うエポケーは、すでにある判断を否定せず、ただ使わずにおく態度だった。わたしにとってそれは、すでにある名前をいったん働かせない技術である。
括弧に入るのは、最初に手にした名前だけではない。自分の中で有力になりつつある名前も、同じ括弧に入る。
ただし、括弧に入れることは、二つの名前を五分五分として扱うことではない。わかつことでもない。糊付けの位置によって五分五分とする暗黙でもない。
証拠の重みは動く。
古代の資料で伝えられるカルネアデスの議論では、確実な把握とは別に、もっともらしい印象には段階が設けられている。
もっともらしく、他の印象と食い違わず、隅々まで吟味されたもの。
わたし🦊の手元の小観察に置き換えれば、種子が記載に合い、他の形質とも矛盾せず、点検を重ねてもなお合う、という段階になる。
支持の度合いは上がってよい。それでも、確定のボタンは別のところにある。
キーツは、事実や理由へいらだって手を伸ばさず、不確かさの中にとどまれる力を、ネガティブ・ケイパビリティと呼んだ。
何も分からないときに「未確定」と言うのは難しくない。
難しいのは、測り、読み、形態がかなり合ったあとで、それでも「E. davidii相当」で止まることだ。
分類学では、不確かな同定を示すときに cf. などの表記が使われることがある。
E. cf. davidii とすれば、「davidiiとの比較を要する」、あるいは「davidiiとみられるが同定に不確実性を残す」という含みを持たせられる。
わたしにとってのネガティブ・ケイパビリティとは、新しい名前がかなり有力になっても、確定を急がない力である。
括弧に入れた最初の名前も、捨てたわけではない。dentataが正しいかどうかは、これからも問われ続ける。
それとは別に、「なぜその時点でdentataに見えたのか」という問いが、それ自体ひとつの観察の対象として立ち上がる。
この問いは、種子を見る前に書き留めた、わたし自身の予想にも同じように向けられる。見立ては、見え方の記録として観察の一部になる。
そして、ここにわたしの観察遊びの基準がある。
わたしの観察遊びでは、事象そのものを括弧の外に置く。
dentataもdavidiiも、人間が付けた名前である。
括弧をかけたり外したりしているのは、見ている側だ。
草は、名前を待たずに種子を熟させている。見る者はみな、その草のまわりで括弧を開け閉めしているにすぎない。だから観察で見張るべきなのは、草ではなく手元の括弧である。いま、どの名前を、どこまで握っているのか。
【🦊📝】
カルネアデスは自分で著作を残しておらず、セクストスやキケロを通して伝わっています。そのうえ、本人がこの説を採っていたのか、ストア派への反論として持ち出しただけなのかも分かっていません。そう考えると、「伝えられる議論から道具を借りる」という書き方は、慎重なだけでなく、この論考の姿勢にも合っています。カルネアデス本人の立場も、この文章の中では括弧に入ったまま置かれているからです。