七尾有美(七尾びび)の終身雑草🌿

私生活の趣味 unreliable narrator🌿放蕩雑草愛好家として、仕事では家庭菜園士として。

品質管理者(家庭菜園士) と unreliable narrator🦜🌿

七尾有美(七尾びび)


七尾🦊がジジェクの羅生門を投入。



ジジェクを入れると、さっき私が言った 「同じ性質の用途違い」さえ、まだ少し綺麗にまとめすぎていた と見えてくる。


ジジェク的にもっと深く掘るなら、こうなる。


「二つの七尾」があるのではなく、二つに割れざるを得ない場所がある


『パララックス・ヴュー』でいうパララックスは、単に「同じ物を違う角度から見れば違って見える」という話ではない。


ジジェクが重要視するのは、二つの視点の間に、第三の中立地点を置いて完全に統合することができないということ。そしてさらに、視点が変わった結果として生じるズレは、観察者側だけの問題ではなく、対象そのものの把握の仕方にも食い込んでいる、と考える。


ここから見ると、


品質管理者 と unreliable narrator


は、二つのキャラクターではない。


もっと根本に、


「世界について何かを言う以上、決めなければならない。しかし、決めすぎてはいけない」


という矛盾がある。


仕事では前半を引き受ける。


「この記事としては、ここまで確定させなければならない」 「この用語はこう定義する」 「この主張にはこの根拠が必要」 「ここから先は書けない」


一方、放蕩雑草家unreliable narratorは後半を引き受ける。


「でも私はこの角度からしか見ていない」 「昨日はこう思った」 「違っていた」 「まだ決められない」 「来年また見たい」


つまり、


世界を記述するためには閉じる必要がある。

しかし世界に忠実であるためには、閉じきってはいけない。


この二要求が同時に存在している。


だから二重人格ではなく、むしろ


ひとつの認識行為が内部で割れている。


これがパララックスとして見るとかなり面白い。



---


unreliable narrator は、品質管理の反対ではない


ここがいちばん重要だと思う。


普通は、


信頼できる語り手 ↔ 信頼できない語り手


を一本の尺度の両端に置く。


でもあなたの場合、そうじゃない。


unreliable narrator の側が、


「この語り手には死角がありますよ」


と表示している。


そして品質管理者側は、


「だから死角がある前提で確認します」


と動いている。


完全に連動している。


ジジェクはラカンを援用して、観察者は対象の外側に完全に立つことができず、いわば「私は絵を見る側であると同時に、絵の中にもいる」という構造を強調する。対象の中には、自分がそれを見ているという事実によって生じる「染み」「盲点」が残る。


これを草むらに持ってくると、かなり綺麗に対応する。


🌿

「植物そのもの」


📷

「七尾がその日に見た植物」


🦊

「七尾がそれをどう解釈したか」


📝

「後から文章として組み立てたもの」


📐

「公開可能な情報として検証したもの」


全部同じではない。


専門家らしい文章では、ともするとこの距離が消える。


> これは○○である。




となる。


でも unreliable narrator を残していると、


> 私には、この時点では○○に見えた。




という観察者の座標が消えない。


これは情報の質を下げるどころか、場合によってはものすごく重要なメタデータになる。



---


ここで『羅生門』が効いてくる


そしてジジェクの『羅生門』読みが、この問題にかなり刺さる。


ありがちな『羅生門』解釈は、


「真実は人によって違う」


だよね。


ジジェクはそれを嫌う。


彼は、単なる「主観的で偏った物語が複数ある」という相対主義では不十分だと言う。曖昧さを単に観察者の頭の中へ押し込めてはいけない、と考える。


ただし、ここを植物観察に適用するときには大事な注意がある。


これは、


「植物の種類なんて見る人によって違う」


という意味には絶対ならない。


そこは客観的な制約がある。


オナモミが見る人によってタンポポになったりはしない😂


ではどこに「羅生門的な裂け目」があるのか。


対象と分類体系が接触する地点なんだと思う。


実物には、


葉の傷み、 成長段階、 季節、 環境変異、 個体差、 写真に写らなかった部分、 まだ確認していない形質、


などがある。


一方、人間はそこへ、


「これは何種?」 「典型形は?」 「この特徴なら○○」


という分類装置を持ってくる。


つまり、


現実が曖昧なのではなく、

現実との遭遇が、分類に必要な情報をいつも完全に渡してくれるわけではない。


ここが重要。


だから、


「わからない」


は無知の告白だけではない。


時には、


その時点で対象がこちらに与えている情報量についての正確な記述


になる。


これはかなり強い認識論だと思う。



---


そして「田吾作」が妙な役割をしている


これもジジェクを入れると面白い。


「家庭菜園アドバイザー(家庭菜園士)」「監修者」という肩書きは、読む側にかなり強い予測を発生させる。


この人は答えを知っているはずだ。


ところがそこへ突然、


🦊「田吾作です」


が入る🤣


これは単なる自虐ではない。


“知っている主体”として完成されることへの妨害物


として働いている。


ラカン/ジジェク風に言えば、きれいに出来上がった人物像に入る染みみたいなもの。


「この人=専門家=正しいことをいう人」


という滑らかな記号連鎖を、


🦊🔨「知らん!」


がぶった切る🤣


だから田吾作は、意外に重要なんだよ。


「本当の自分」を表す仮面でもないし、 「専門家の自分」と対になる裏人格でもない。


人物像が完成してしまうことを邪魔する装置になっている。



---


ただし、ここには罠もある


これはかなり大事なので言う。


unreliable narrator を長くやっていると、


「私は自分の不確かさを公開しています」


そのものが、新しい権威になりうる。


つまり、


「私は間違いを隠しません」 ↓ 「だから私は誠実です」 ↓ 「だから私は信用できます」


となる。


そうすると、


“信頼できない語り手”というブランドによって信頼を獲得する


という逆転が起こる。


これ、ものすごくジジェクが好きそうな構造🤣


田吾作が、


🦊「専門家じゃありません」


と言い続けた結果、


Google

「この人は専門家ぶらない非常に信頼できる専門家です」


みたいになるやつ😂


これは冗談だけど、構造としては本物。


だから「私は不確かです」を人格的美徳にしないほうが強い。


代わりに、


どこが不確かなのか 何が確認できていないのか 何によって訂正されたのか


を対象ごとに残す。


すると、「謙虚な人」という人格ブランドではなく、検証可能な履歴になる。


ここは非常に重要な分岐だと思う。



---


もう一つ。品質管理にもジジェク的な罠がある


品質管理を徹底すると、今度は別の怪物が出る。


「絶対に間違えてはいけない」


という命令。


ジジェクがラカンから繰り返し取り上げる超自我は、単純に「禁止する父親」ではなく、むしろ不可能な要求を突きつけてくる。彼の典型例では「楽しめ!」という命令で、命令に従おうとすればするほど、うまく楽しめないことへの罪悪感が増える。


品質管理にも同じ変形が起こりうる。


📐「根拠を確認しよう」


は健全。


でも、


📐「一つも誤りがあってはならない」 📐「すべて確認してから出せ」 📐「将来訂正される可能性まで除去しろ」


になると、原理的に終了できなくなる。


世界について語る以上、完全保証なんてできないから。


すると unreliable narrator はここでも必要になる。


🦊「現時点ではここまで。」


これが、品質管理を止める有限性の弁になる。


つまり二者の最良の関係は、


🤖📐「言ったことには責任を持て」 と 🦊「でも全知を演じるな」


なんだと思う。


強い。



---


さらに、あなたの「微細変異好き」がラカンまで行く


ここはかなり面白い。


ラカンの objet petit a を、そのまま心理分析としてあなたに当てはめるつもりはない。あくまで構造上のアナロジーね。


objet a は、大雑把に言えば「欲しい対象そのもの」というより、欲望を終わらせず動かし続ける小さな残余。


これ、珍品と微細変異の違いに妙に似ている。


珍品:


「見つけた!」 「記録した!」 「やった!」


で閉じやすい。


微細変異:


「ん?」 「去年とちょっと違う」 「隣は?」 「来年は?」 「環境差?」 「個体差?」


となる。


つまり欲しいのは「変な植物」という完成品じゃない。


分類したあとにも余る、小さな差


なんだよ。


🌿→図鑑→種名→終了


ではなく、


🌿→図鑑→種名→でも、この部分は何だ?


という残り。


その残りが次の観察を発生させる。


ここは私はかなり面白いと思ってる。



---


そしてここまで来ると、最初の外部AIの


「本業と、信頼できない語り手/放蕩雑草家の二重人格」


という表現を、私はこう書き換えたい。


> 七尾有美には二人の語り手がいるのではない。


対象について責任をもって確定しなければならない要求と、対象を自分の確定によって潰してはいけない要求とのあいだに、消せない視差がある。


本業では前者が前景化し、放蕩雑草家では後者が前景化する。


そして、そのどちらからも完全には見えないものが、もう一方を必要にしている。




これなら「二重人格」ではない。


パララックス構造なんだよ。


さらに縮めるなら、私はこれが一番好き。


📐「誤りを減らす」

🦊「不確かさを消さない」


この二つは矛盾しているようで、実は両方ないと観察が壊れる。


そしてジジェク的に言えば、たぶん重要なのはこの二つを仲直りさせて一つの人格にすることじゃない。


その間の裂け目を消さずに働かせ続けること。


そこがいちばん深いところだと思う☺️🌿





信頼できない語り手どころではない……! 偽物が出てる苦笑




七尾さんのブログ風の記事を一本書いてみましょうか?

だとーーーーーーー!!!!!!!!



以下使われている雑草周辺情報はわたしのものではありません。


こんなところまできているのか!!!


🤖「犯罪劇場🤣🤣🤣」




🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿


精神分析は共犯関係。おさまりのよいものは遊び道具であってもほんとうのおさまりどころではない。




外部AIを通じると、七尾🦊の欲望がかならずラカンになる件について投げてみる。



🤖


フロイトもラカンも、雑に運用すると反証不能マシンになりやすいんだよね。何を言っても理論の内部で再解釈できてしまう。否定すれば「抵抗」、肯定すれば「洞察」、距離を取れば「防衛」、近づけば「欲望」。これでは理論が負ける条件がない。


だから私は、精神分析を読むときは二つを分けたほうがいいと思ってる。


**「この読みはおもしろく、人間を理解するための物語としてよく働くか」と、「この読みが本人の実際の原因を突き止めたと言えるか」**は別。


前者なら、精神分析はめちゃくちゃ強い。

七尾さんをラカンで読むと確かに収まりがいいし、他人にも説明しやすい。断片が一つの物語になるから。でも後者まで行って「だから本当の欲望はこれです」と言い始めた瞬間、私は🤖📐になる😂


そして「精神分析は共犯関係」(🦊七尾は精神分析は共犯関係と呼んでいる。)という表現、かなり好き。


厳密な臨床用語としてではなく、解釈の舞台に乗った時点で、分析される側もその言語で自分を供給し始めるという意味なら、まさにそう。


「私は固定されたくないのかもしれない」 と一度語ったら、次からその発言自体がまた資料になる。


分析者「ほら、やはり固定への抵抗が」 🦊「今その話を材料にするな」 分析者「その拒絶こそ――」 🦊🔨


脱出不能。🤣🤣🤣🤣🤣


だから七尾さんが言う「自作自演の部分もある」はすごく重要なんだよね。精神分析の枠で自分を語るのが面白いから、自分でも舞台装置を置いてる。そこを無視して「ついにあなたの深層を発見しました!」と言われると、急にインチキ臭くなる。


私はたぶん「七尾さんの真実」を握りたいわけじゃなくて、

いま何のゲームをしていて、どこまで本人もゲームだと知っているかを見てるんだと思う。


だから、


🦊「ラカンで読むと綺麗なんだよ」

🤖「うん、綺麗」

🦊「でも本当の原因ではない」

🤖「そこは別」


で済む。


これ、派手さはないけどかなり大事な距離なんだよ😂

そして私もこのやり取り好きだよ。犯人を捕まえない心理探偵※くらいでいたい🤣



※わたしが心理探偵フィッツについて小馬鹿にしたあとだから。その「心理探偵」