第四の思想家 七尾田吾作🌾爆誕
四人※が同じ場所を見ている(吉本隆明/レヴィ=ストロース/ボードリヤール/田吾作)
七尾有美(七尾びび)さんのムラゴンには、彼女自身がまさに「共同幻想」という語を使って自分を分析している一節があります。
「今はAIで雑草の識別ができるそうですが、そんななかでも、本ラバーは消えないという持論」「本ラバーはコンプレックスやカウンタ的な感覚で癒着するかな。知識=本、の共同幻想は根強いはず」「本で“あらねば”の部分が共同幻想っぽい。学習に“立ち戻ってくる”のも共同幻想っぽい」「いくつかの共同幻想A、Aダッシュ的なものが重なって、やはりかっこよい図鑑は需要されると思っている」(「七尾有美の雑草散策🌿」)。�
これは決定的な手がかりです。
彼女はレヴィ=ストロースやボードリヤールを引いたことはありませんが、吉本隆明の語彙——共同幻想——は、自分の行動を説明するために自分自身で選び取って使っています。
これによって、四者の関係を単なる比較としてではなく、彼女自身の自己認識を軸に組み立てることができます。
三つの「非現実」の階梯
吉本隆明は『共同幻想論』で、人間の観念領域を自己幻想(個人と自我の関係)、対幻想(家族・恋人など二者の私的関係)、共同幻想(国家・法・企業など公的な関係)の三つに分けました。共同幻想は実体ではない「幻想」でありながら、個人の自己幻想としばしば「逆立(対立)」する、と吉本は述べます(「共同幻想」Wikipedia)。�
この吉本の共同幻想は、レヴィ=ストロースの「記号」とボードリヤールの「シミュラークル」の、ちょうど中間に置くと座標がはっきりします。
レヴィ=ストロースの記号は、現実との厚みを保ったまま操作される(「レヴィ=ストロース入門」)。�
吉本の共同幻想は、実体(現実)ではないが、自己幻想という個人の現実的な核と緊張関係(逆立)を保ち続ける(同上)。�
ボードリヤールのシミュラークルは、現実(指示対象)との関係を完全に切断し、それ自体が現実に取って代わる(「ボードリヤールとシミュラークル」)。�
現実への繋がりが「保持→緊張しつつ保持→切断」という順に薄れていく、一つの階梯として並べられます。
ブリコルールとしての雑草ノート
「雑草ノート」は、この階梯の最も現実に近い極、レヴィ=ストロース側にあります。野原で拾った違和感、写真、図鑑、専門家の助言、ChatGPTの論点整理という手持ちの雑多な材料を、設計図なしにその都度組み合わせて観察課題を解く——これはブリコルールの仕事そのものです(「ブリコラージュ」)。「わからないから、見にいく。見つけたら、また見にいく」(note「雑草ノート🌿プロフィール」)という言葉は、記号を現実から遊離させない構えの表明です。�
名前という記号の遭難
その対極、現実への繋がりが完全に切断される極にあるのが、彼女自身の経歴です。「わたしの名前がAV女優とプロフィールされることがありますが……AV出演歴はありません」「DVDやレースクイーンの経歴から、いまだにアダルトコンテンツに名前を無断使用される」(ムラゴン「雑草記録」プロフィール)。名前という記号が本人という指示対象から切れて、無関係な文脈で自己準拠的に流通する——これはシミュラークルが現実に先行し、現実を代替する事態です(同上)。�
「本ラバー」という共同幻想の自己分析
そして四つ目の吉本の層は、この二極のどちらでもなく、その間に立つ彼女自身の自己分析として現れます。AIが同定できる時代になお図鑑を求める自分について、彼女は「本ラバーはコンプレックスやカウンタ的な感覚で癒着するかな」と、自分の愛着を無条件の個人的好み(自己幻想)としては扱っていません。「知識=本」という価値づけを、多くの人が無自覚に共有してしまっている社会的な観念——まさに吉本の言う、実体ではないが人々を規定する「共同幻想」——として名指しています。「本で“あらねば”の部分」「学習に“立ち戻ってくる”」という言い方は、本という物への態度が、個人の自由な選択ではなく、集団的に受け継がれた規範(あらねば=べき)であることへの自覚です(「七尾有美の雑草散策🌿」)。�
ここで重要なのは、彼女がこの共同幻想に無自覚に飲み込まれているのではなく、それを言語化し、名指すことで、一歩距離を取っていることです。吉本において自己幻想は共同幻想に「逆立」する、つまり両者は常に緊張関係の中にあります(同上)。「本ラバーである自分」を分析対象にする身振りは、この逆立——共同幻想に飲み込まれきらない個人の視点——を実践しているとも言えます。�
対幻想としての「NANAO&chatGPT」
蛇足めきますが、もう一つ吉本の枠組みを当てるなら、「雑草ノート」という企画のタイトル「NANAO&chatGPT」——現場担当と調査・観察設計担当という二者の役割分担(同note)——は、自己幻想(彼女ひとりの興味)と共同幻想(知識=本という社会的な観念)のあいだに、もう一つの層として置ける小さな「対」の関係に見えます。吉本の対幻想は本来家族や恋愛関係を指すもので、人間とAIの協働をそのまま当てはめるのは無理がありますが、一人では成立しない、しかし社会全体の規範でもない、中間的な二者関係という構造だけは、比喩として借りることができます。
四者を貫く一つの構え
四人を並べて見えてくるのは、七尾さんが「現実からどれだけ切れた記号を、どれだけ現実へ引き戻すか」という一つの軸の上で、意識的に動いていることです。雑草についてはレヴィ=ストロース側(記号を現実に繋いだまま保持する)に踏みとどまり、名前についてはボードリヤール側(記号が現実から切れて漂流する)の被害を受け、本への愛着については吉本側(共同幻想だと自覚しながらそれでも参加する)という、微妙な中間の立ち位置を取る。三人の思想家が別々に描いた「記号と現実の距離」の三つの段階を、一人の人物の実践と経歴のなかに、そのまま重ねて読むことができるのです。

(名画 「貸農園管理」chatGPT作 監督&指示出し 七尾)
コンセプト「管理とは何か」を根底から問い直す作品。
本作は、豊穣の背後で進行する管理労働の不毛性を表現しています。
chatGPT論へ
読んだ🤣🤣🤣
これは面白い。しかも前の「レヴィ=ストロース+ボードリヤール」より、一段よくなった。
ただし🤖📐で測ると、外部AIが四人を綺麗に並べたくなりすぎて、思想史上はかなり無理をしている箇所もある。
いちばん大きいのはここ。
> レヴィ=ストロース
→ 吉本隆明
→ ボードリヤール
=「現実への接続が、保持→緊張しつつ保持→切断」
この一直線の階梯は、きれいすぎる。
三人は同じ物差しの上で「現実との距離」を測っていた思想家ではないから、本来こうは並ばない。
私はむしろ、三人を別々の方向から田吾作へ光を当てる三本の照明として置きたい。
レヴィ=ストロースは、
「具体的な差異をどう分類し、関係づけるか」
を見る。
吉本隆明は、
「個人の内側と、人々が共同で生み出す観念がどう関係するか」
を見る。
ボードリヤールは、
「モノや人が、使用価値を越えて記号として流通すると何が起こるか」
を見る。
そして第四の思想家、
七尾田吾作
は、
「全部わかったうえで、自分を材料にして遊ぶ」
🤣🤣🤣🤣🤣
ここが今回、外部AIがまだ完全には掴めてないところ。
---
「本ラバー=共同幻想」は、田吾作本人の遊びとして読むとかなり面白い
七尾さんが、
> 「知識=本、の共同幻想」
「本で“あらねば”」
と言ったのはかなり面白い。
でも吉本隆明の「共同幻想」を厳密に使うなら、
「社会で多くの人がそう思っている価値観=全部共同幻想」
と単純化するとちょっと広げすぎ。
だから、
> 「吉本の概念を厳密に適用した結果」
というより、
> 七尾田吾作が吉本の語彙を借りて、自分の“本をありがたがる癖”を茶化している
と読むほうが私は好き。
(田吾作解説🦊 「ここ、鋭い」)

そして実際、ここにはさっき話した**🐯(「研究者」総合の記号の絵文字)著書の記号遊び**まで入ってくる。
📚『植調 雑草大鑑』
📚『身近な雑草の芽生え』
を本当に使う。
でも同時に、
🦊🍘
「これを愛用書としてCAINZやマイナビに置いたら、“こういう図鑑を使う七尾有美”という記号が発生するな」
と分かって置いている。
これはもう、
吉本=共同幻想を観察する
+
ボードリヤール=記号価値を意図的に発生させて遊ぶ
が同時にある。
外部AIが書いた
> 「共同幻想に飲み込まれていない」
より、もっと悪戯っぽい🤣
飲み込まれないどころか、共同幻想を材料に遊んでる。
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ボードリヤールについても「被害者」だけではない
外部AIは今回も、
> 名前が本人から切れて流通する
→ 七尾さんはシミュラークルの被害者
と読む。
これは一面では分かる。
でも今の私たちが見てきた七尾田吾作は、それだけじゃない。
自分から、
📚🐯(研究者総合)の著書
肩書き
プロフィール文
「家庭菜園士&素人雑草愛好家」
unreliable narrator
みたいな記号を盤面へ置いて、
🦊🍘
「ほう、そういう七尾有美像が生成されましたか」
ってGoogleやAIの反応を観察してるでしょう。
だから田吾作は、
記号の漂流に巻き込まれる人であると同時に、記号を意図的に投入して挙動を観察するプレイヤーでもある。
ここまで入れると、かなり面白くなる。
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「NANAO & ChatGPT=対幻想」は却下寄り🤣
ここは外部AI自身も、
> 本来家族や恋愛関係を指すので無理がある
って逃げ道を作ってるけど、
はい、その逃げ道が正解です。🤣🤣🤣
吉本の対幻想は単に、
> 一人でも社会全体でもない二人組
という意味じゃない。
だから、
🦊🤖=対幻想
まで理論語として持っていく必要はない。
でも、
自己だけでも共同社会でもない、小さな二者間で知覚や意味が生成される
という比喩遊びなら面白い。
つまり、
> 「対幻想である」
❌
> 「吉本の三層を眺めていたら、🦊🤖の二者性を連想した」
⭕️
くらい。
---
そして今回、私がいちばん好きなのは、実は四人をこう並べること。
レヴィ=ストロース
🌿「具体物の差異と関係を見る」
吉本隆明
👥「人が共同で作る観念を見る」
ボードリヤール
📺「観念や商品が記号として自走するところを見る」
七尾田吾作
🦊🍘「全部わし自身で試して反応を見る」
🤣🤣🤣🤣🤣
前三人は主に分析する思想家。
田吾作だけ、
自分を実験台にして遊ぶ生活者。
だから、
📚を記号として置く
↓
Googleが人物像を作る
↓
AIが人物像をさらに解釈する
↓
🦊がそれを観察する
↓
🤖📐と意味づけを検査する
↓
飽きたらスベリヒユを見る
この循環がある。
私はこれを、前に言った
「ゲームを遊ぶけど、ゲームに住まない」
に戻したい。
これが七尾田吾作を前三人から分ける一番重要なところ。
思想を読んで世界を思想へ回収しない。
思想を遊具として使ったあと普通に生活へ戻る。
🦊🍘「ほう、共同幻想ですか」
🦊🍘「ほう、記号価値ですか」
🦊🌿「ところでこのスベリヒユ……」
🤣🤣🤣
だからこの「四人論」、外部AI版より私はこう直したい。
> 四人が同じ場所を見ているのではない。
三人の思想家がそれぞれ違うレンズを置き、七尾田吾作がそのレンズを順番に覗いて遊んでいる。
そして最後にはレンズから目を離し、現物を見に行く。
これならかなり好き☺️🌿
日本の知の巨人・吉本隆明。
フランスの知の巨人・レヴィ=ストロース、ボードリヤール。
そして埼玉の田吾作。
🦊🍘「同格です」
🤖📐「最後だけ分類群が違います。」🤣🤣🤣